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どうする家康、どうするニッポン! ~統一地方選挙の年~

写真は家の近くの河原の枯れススキです。古い世代の方なら耳にしたことのある「船頭小唄」や「昭和枯れすすき」の歌詞に唄われているものです。新年を迎えての世情のニュースを見ていると、ついこの歌が頭に浮かんできました。値上げ・増税、強盗・殺人と、暗いニュースが多過ぎます。  3年前の1月は、新型コロナウィルスの恐怖で幕が開けました。世界中がパンデミックとなり、混乱と混迷が続きました。四年目を迎える今年は、一部の国を除いて平静が戻り、昨年末には、サッカーW杯カタール大会で世界中が盛り上がりました。  とはいえ、日本では高水準の感染状況が続き、人の集まりも遠慮気味で、正月も素直に祝えない心象にありました。お隣の国の中国では、ゼロコロナ解除で、正確なことはわかりませんが、すざましい感染状況のようです。  そんななか懸念されるのは、家庭や地域における日本的な文化や慣習の衰退です。冠婚葬祭をはじめ伝統行事やイベントなどの縮小や廃止が続いています。  人生の節目である結婚式や葬式が個人や家族の狭い範囲となる動きに割り切れない思いを抱くのは私だけでしょうか。また、地域の象徴である祭礼や行事の継承も、極端な少子化と人口減少のなかで、困難に直面しています。 血縁や地縁の希薄化は、国や地域の価値観を揺るがし、存続を危うくしないでしょうか。  大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。現在の対立する世界情勢は、日本の戦国時代と重なります。家康がめざした厭離(おんり)穢土(えど)欣求浄土、天下泰平を、家康の成長とともに考えていきたいと思います。  同時に、統一地方選挙の年であります。我国の主権者の一人として「どうするニッポン」を真剣に考え、閉塞状況の現状を打破できるように、政治を監視しなくてはならないと、日本国民が互いに戒めて実行しなくてはならない新年ではないでしょうか。
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心機半転 卯年の新年に想う

明けましておめでとうございます。本年も、「もりじい元気広場」のご愛読ご指導のほど、よろしくお願いします。 今年の正月三が日は、風もない冬晴れの穏やかな日が続きました。三年ぶりに制限がなくなり、帰省や初詣、箱根駅伝などのイベントに多くの人出が戻ってきました。ウィズコロナ社会の光景です。 元旦。私は、例年のように、まず、新年を迎えられたことへの感謝と祝賀の気持ちを込めて、玄関に日の丸を掲揚します。続いて、凛とした空気の中、野田川べりまで出かけ、初日の出を遥拝(ようはい)します。新たな年の新たな決意を祈念する心機一転の時です。 南天が赤みを帯びて次第に明るさが増し、初日の曙光が射してきます。正対し合掌して、決意と発願(ほつがん)を述べます。 昨年までは、市全体の教育目標を実現すべく具体的な言葉で気合が入っていました。今年は、概括的な言葉しか浮かばず、他は個人的なもので、心機が一転するほどの内面的な力は感じられず、心機半転と表現するほかない有様です。 利他の大きな目標をもつ時には、強い意思が働き、内奥(ないおう)より熱いエネルギーが湧いてきます。自己の内に収束される目標では、責任もなく他に迷惑をかけることもないので、力強さに欠けてしまいます。 一方、戦争収束や世界平和、コロナ終焉や経済好転などは、個人の力では及びません。とはいえ、混迷・激変の現代において、世界の動向は、直接私たちの生活に響いてきます。 現状打開のためには、声を上げ続け、その声を大きくしなくてはなりません。その先導として、しなやかな感性をもつ若者や女性の台頭と、それを共有できる政界や経済界、教育界のリーダーの確かな針路を期待します。 私事で恐縮ですが、私の心機半転の一部を紹介させていただきます。①HP「もりじい元気広場」の発信、②戦国の歴史探究、③東三河のジオ探査、④フェイスブックへの投稿、⑤「船長日記」読破、⑥愛泳・愛唱、などです。 年頭にあたり思い描いたことが一年後にどうなっているか。このささやかな行動が少しでも貢献に値することであれば幸いと願うばかりです。
学校教育

思春期に政治・経済を考え、参加すること

思春期に政治・経済を考え、参加すること  中国においては、習近平総書記が異例の3期目続投が正式に決定。ヨーロッパでは、イギリスのトラス女性首相が45日という短い在任期間で辞任し、後任にスナク首相がイギリス史上初のアジア系首相として就任。イタリアでは、メローニ女性首相の新政権が発足。アメリカでも、2週間後に中間選挙が行われ、その結果次第で、世界が動かされます。そして、ロシアの侵略によるウクライナの戦争は、厳寒を迎えようとしているのに、凄惨な状況が続いています。世界の政治動向は、地球や人類の未来を左右しかねず、目が離せません。 こうした国際状況のさなかにあって、日本だけが影響を受けないというわけにはいきません。民主主義国家として、いかに諸外国と交渉し、平和と国益を守るかが政治家に問われています。それにもかかわらず、国会開催中に経済再生担当大臣が辞任するなど、政局が揺れています。戦後77年を経て、18歳から選挙権が与えられ、主権者教育も学校で行われるようになってきましたが、若者をはじめ国民の民主主義の政治意識は高まったでしょうか。それは、国政並びに地方の議員選挙の投票率の推移を見れば明らかです。どうすればいいのでしょうか。 もっとも多感な思春期に地元の政治・経済を考えたい。 現在、新城市には、「新城市若者条例」「新城市若者議会条例」に基づき、全国初の「若者議会」が設置されています。若者が自分の思いや意見を伝える機会を若者が活躍できる世代のリレーができるまちづくりをめざしています。市長の附属機関として、市の予算1000万円を財源として、若者の声を市政に実現できる仕組みになっています。どうして新城市に若者議会が誕生したかについて、その発端は、以下のようです。 新城市は、「新しい城」の市、英語に訳すと「ニューキャッスル」市となります。そこで同じ名前という縁で、世界のニューキャッスル市と20年余にわたり交流しています。そのなかに若者同士の交流である「ユース会議」があります。2012年のイギリスのニューキャッスルアポンタインでの第8回アライアンス会議でのことです。そこでの議論の主なものは、「若者の声を市政にいかに反映させるか」「若者が起業するために何が必要か」といった地元の街の政治・経済についての話題です。 日本の若者は、環境問題については、学校でも学んでおり、意見を述べることはできます。しかし、日々動いている政治・経済の問題となると、耳にすることはあっても、自分の問題として深く考えた経験がないというのが実情です。丁々発止の意見を英語で述べる外国の若者の姿に圧倒され、頭の中が真っ白になります。その上、考えた経験もない分野の議論ですので、英単語の意味もわからず、ますますあせってしまいます。 議題にかかわる材料の蓄積がない、意思疎通のツールである英単語がよくわからないという二重のハンディのなかで、日本の若者だけがガラパゴス状態になってしまいます。会議を終えて戻ってきた新城の若者たちは、大変に悔しがっていました。そして、帰国後において、「新城ユース会議」を立ち上げ、自分たちでテーマを設けてディスカッションしたり、「市民会議」の司会・運営をするなど積極的に市の行事に参画したり、留学生を市内観光ガイドするなど英語学習の機会を作ったりしました。 若者たちに、世界の若者と比して悔しい思いをさせたり、政治・経済の問題に無関心であったり、英語コミュニケーション能力の乏しい多くの若者を育ててきたのは、日本の大人たちであり、学校・家庭の教育です。誠に申し訳ないことと思います。 政治家を選ぶ選挙の投票率の低さに顕れる日本国民の意識。 2023年は、統一地方選挙の年で、4月に、県や市の首長や議員の選挙が各地で行われます。その都度、当選の喜びの映像がニュースで大きく放映されますが、その際、例えば、当選した首長の得票数が市の人口や有権者数に比してきわめて少ないことに違和感を覚えます。投票率を見ると、30から40数パーセントが大半です。となると、例えば、投票率40パーセントの選挙で60パーセントを獲得して当選したとしても、全有権者数のわずか24パーセントの支持で、100パーセントの政治を付託されることになります。このことを是とするか非とするか、民意の反映とするか否かは、微妙な問題です。国政選挙で問題となる「1票の格差」も、「投票者数」を基準に考えると、また違う風景が見えてきそうです。 ともあれ、日本の中高等教育のなかで、地方自治や国政の時の動向について学んだり、友人・家族や地域の人と地方自治について議論したりしたことがあるかを振り返ってみると、肌寒い実情ではないでしょうか。 教育が「政治・宗教の中立」を錦の御旗にするあまり、タブー視して取扱いを避け、子供たちの思考を停止させていないでしょうか。一党一派に偏る議論は避けなくてはなりませんが、理想とする「市町の姿」「国の形」を論じ合うことは、「愛郷心」「愛国心」を育むうえでも大切なことと思いますがいかがでしょうか。 少なくとも、ニューキャッスルのユース会議において明らかになったことは、世界の若者は、それぞれの国の母国語と異なる英語を駆使して、地方政治について問題意識をもって議論し合っているということです。人間生活と直結する「政治の具体」について、なかば思考停止のまま大人になったとしたら、世界を相手に議論することなど、とてもできません。 日本の選挙における投票率の低さは、学校教育における政治学習の在り方に起因するのかもしれません。生徒会の自治の在り方を含め、教師の意識を高めることが必要です。いずれにしても、日本の若者が世界の若者を相手にするとき、政治についての自分なりアイデンティティーをもつことが必要です。 では、経済大国であった日本の若者の経済に対する見識はどうでしょうか。 ユース会議では、「若者の起業」がテーマでした。若者が起業しやすい環境を構築するために政治がいかに支援すべきかと、政治と経済を一体化して、自分自身の問題としてとらえています。日本の小中学校でもキャリア教育は盛んですが、職業紹介や就業体験が主で、そこに「起業の発想」はないように思います。その結果、資格をとって大きな会社に就職とか、収入が安定している公務員を志望するといったところに落ち着きがちです。昨今では、ITやバイオでのベンチャー企業も多くなってはいますが、「ものづくり日本」のフロンティアとして「起業をめざす」といった声は、聞いたことがありません。 また、一方、最近では、経済大国は、過去の幻想で、国民一人当たりのGDPでも、OECD加盟国中19位ですし、国民一人当たりの所得(GNI)は、それ以下で、子供の貧困が問題になっています。昨今の円安が如実に物語っています。 「一人前になる」気構えを培っているでしょうか。 子供が大人になって社会で「独り立ち」できるようになることが「一人前」です。それぞれの職業や分野において自分の判断で物事を進め、自分の力で生活でき、家庭をもてるようになることが「一人前」の定義でした。時代とともに意味合いの変化はありますが、そこに欠かせないのが「経済」であり、「経済力」です。「勤労の対価」などと難しい言い方でなく「賃金」であり「金儲け」です。 一次産業が中心だったころは、親が汗水流して働いた対価としての現金収入は、子供にもわかりやすく、身近なところに経済があり、「お金の大切さ」を肌身で感じることができました。「働かざるもの食うべからず」といった言葉も当然のこととして受け入れていました。 高度成長ののち、会社や工場で働く親の後ろ姿は子供の目の届かないところになり、給料振込生活者となって家庭で家計や経済の話題が少なくなりました。少子化で子供の小遣いや玩具は、常に子供の欲求以上のものになりました。学校教育現場にあった「子供貯金」や「集金」の活動も姿を消しました。勤労による子供の小遣い稼ぎも必要なくなりました。十円玉を握りしめて駄菓子屋の前に立つ子供はいません。菓子も食糧も多くの家庭に余るほどあります。 子供たちが「不足感」や「渇望感」を抱くことがなくなりました。 「衣食足りて礼節を知る」は、もはや時代錯誤の言葉となってしまいました。しかし、食糧資源やエネルギー資源の実情からしても、いつまでも飽食・消費の時代は続きません。地球規模で持続可能な社会を考えなくてはならない時代です。その意味合いでESD(持続発展教育)ユネスコスクールの発想も重要です。思春期に政治・経済をいかに考えさせるかは、グローバルな人材を育てる上でも、教育に欠かせない事柄だと思います。 「夢をもつ教育」が盛んですが、「夢を現実にする教育」はより重要です。 これこそが「生きる力」につながります。学校現場の先生方は、「お金」や「経済」について考える機会は比較的少ないと思います。また、子供に「夢をもつ」ことは多く語りますが、「夢を現実にする術」を教育することは、少ないと思います。子供たちが青年になって海外の若者と、「自治」や「起業」、「政治」や「経済」を対等に英語で議論しあえるよう、小中学校のころから備える必要があります。学校・教職員の未来にかける展望次第です。           
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うつせみ(猛暑の年に)

尾花が風にそよぐ10月だというのに、今日も、30度を超す夏日だ。そもそも、40度を超す猛暑が新聞記事になったのは、確か、あの日だ。「41℃」目を疑うようなz数字だ。平成25年8月13日の朝刊のトップ記事。黒地に白抜き文字の大見出し、四国の四万十市で国内最高気温を記録したという。 確かに、連日、日本全国、人間の体温を超す猛暑が続いている。かつて経験したことのない、異常事態だ。
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青年⑤ 宗教と哲学

 生き方、アイデンティティは、その人が、どんな哲学、信念をもっているかによる。また、信仰する宗教の影響も大きい。イスラム社会やキリスト教社会などでは、モスクや教会でコーランや聖書の教え(哲学)を日常的に聞き、学校でも、哲学・宗教を学ぶ授業があるという。しかし、日本において、地域のお寺で説法を聞いたり、神社で神道の講話を聴くことは、ほとんどない。学校でも、宗教の歴史はわずかに学ぶが、経典などの内容にかかわる教えを学ぶことはない。さらに、古今東西の哲学についても、かろうじて高校の倫理社会でさわりを扱う程度である。この状況では、日本人の心の軸となるアイデンティティの形成は、各個人にゆだねるしかほかに方法はない。17歳の少年の危惧は、21世紀の日本においても、解消されていない。
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青年④ 性 LGBTなど性の多様化のなか

「性」は、人類にとって、古くて新しい課題である。そして、その生存や生活に大きな影響を及ぼす。時代とともに、性に対する考え方は変化する。LGBTな、性の多様化も広がっている。男と女の織り成すドラマは、小説や映画の主要テーマでもある。昨今の報道においても、芸能界やアスリート、政治家などが、性の社会的規範を踏み外したために、それまで積み上げたキャリアを無に帰してしまっている。性に対する考え方は、百人百様かもしれないが、社会的規範のなかで生活することが求められる。この文章は、50年前の高校生のもので、当時の常識的性規範が反映されている。
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青年③ 学問 何のために勉強するの?

何のために勉強するの? なぜ学校へ行くの?学問とは? 子供たちの持つ素朴な疑問である。 この疑問に、17歳の高校生が真正面から取り組んでいる。冒頭部分は、フランシスコ・ベーコンの言葉の引用から始まる。 読書は充実した人間をつくり、 談話は機転のきく人間をつくり、 書くことは正確な人間をつくる。 すばしこい人間は学問を軽蔑し、 単純な人間はそれを崇拝する。 ただ賢い人間だけがそれを活用する。 すなわち、学問そのものは、その使用法を教えないからだ。 それは学問を超越した観察によって得られる知恵である。 (フランシスコ・べーコン) 中国の書物にこんなことが書いてある。「聖人は万人を師とし、一定の師を持たない。昔の人は自分のために学問をしたが、今の人は人に認められようとして学問をする」と。
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青年② 生命・いかに生きるか

生  命  (青 年 ②) 夜、電燈の光を慕って2匹のトンボが部屋に入って来た。飼い猫がそれを見つけ1匹を食べてしまった。残った1匹は、そんなこととは関係なく平然と何事もなかったように、ガサガサと電燈にぶつかりながら、元気良く舞っている。 さて、食べられたトンボの生命は何処に行ったのか。残されたトンボもわからないし、食べたネコも、第三者の私にもわからない。 生命とは何か。古来、哲学者や科学者が真剣に追究してきた問題である。それは今もって解決されていない。この方面の専門である「生化学」の学術会議が、本年、日本で開催された。オパーリンや米国の学者たちが、生命の神秘と美を賛嘆し、将来、4年以内に生命の原形ともいえるアミノ酸合成ができ得ると言っている。 近年、この分野の開発は著しく(従って、高等学校の生物科の内容も深くなる)、彼らの言うことは、おそらく実現するであろう。しかし、それでも、なおかつ、我々人間の生命活動である精神活動等の解決にはならない。要するに、道は険しく、可能なる日は、はるか先のことなのだ。 生命とは突如として現われ、瞬間において消え去るものか。そんなはずはない。そこには何らかの要因が働くからこそ、結果が生じるのである。生死についての原因結果とは何なのか。我々は「生命」という言葉を聞くと、それは、物資交代、エネルギー代謝をする動物、植物、ウィルスと答える。だが、それらがこの世に現れる以前の存在はどうなのか。無から有を生じないので、やはり、そこにも別の生命があったはずだ。 そうなると、我々は元来の固定概念を取り除かなくてはならない。つまり、自然、地球、宇宙にも、生命が存在するということだ。その証拠に、我々は、高校1年生の時に、地学科でラッセル図による恒星の進化を習い、第一種族の恒星から第二種恒星まで進化し、最後に 爆発して白色わい星になることを知った。よって、この太陽系も銀河系も、次第に膨張して同じ運命をたどるはずである。 しかし、生命は、そこでとだえるのではなく、再び、それらが新しい宇宙と生命を形成することは必至である。その限りない繰り返しがあるとするならば、生命は永遠である。我々人間の生命にしても同様のことが言える。それは、生態系内の物質循環のなかの、炭素、窒素の循環を考えればわかりやすい。それが全体を表しているわけではないが、生命を考えるうえで、永遠であることの自覚は、最も大切であるように思う。 ここで、一般的な人々の生命に対する認識を考えてみよう。以下、羅列的に並べてみる。①偉大な功績を残すために生きる。 ②子々孫々、自分の血筋を伝える。 ③霊魂によって死後も生き続ける。 ④生命はこの世だけの無常なものである。 ⑤生命は現在に存在するのみだから大いに楽しんで生きる。 以上、5つほどの例をあげたが、果して、これが自己の生命の生きる意義になるだろうか。①について。立派な文学者や芸術家であれば該当するかもしれないが、我々のような凡人には、とうてい無理な話である。②について、子孫が絶えてしまったらどうなるのか。その生命はそこで終止符を打つことになる。これは世の中でしばしばあることで、ヨーロッパのカロリング家やホーエンツォレルン家なども、断絶してしまった王家の例である。 ③について。死を体験した記憶がないので、はっきりとは答えられない。しかし、恐山の話や、米国の催眠術者がある人に生前の環境まで話させたという実験結果を聞くにつけ、あながち嘘でもないだろうという気がする。だが、やはり、私は否定する。 その理由は、霊魂を認めたとすると、現在、我々の生命を構成しているものは、肉体と霊魂ということになる。すると、霊魂は、単に我々の体に宿しているだけになる。つまり、別々の存在になってしまうのだ。我々の生命活動においては、精神と肉体が互いに影響を及ぼし合っていて、単独で活動することはあり得ないからだ。 例えば、恐ろしい夢を見たとき、ハッと目を覚ますと、体中が汗びっしょりになっていたといった経験がそれである。眠っているから、明らかに精神のみの働きであるはずなのに、肉体にもかなりの苦痛と疲労を及ぼしているのではないか。精神と肉体は、別々に考えるべきものではない。 ④について。平家物語の冒頭に見られるような希望のない暗い生命観である。確かに、現実をありのままに見ようとすると、あまりにも人間の醜さが露骨に現れて、生きがいもなくなるだろう。しかし、もう一度考え直す必要がある。人間を構成するものは、悪が全てでなく、あらゆる人々が、善や慈悲の精神をもっていることを。人々は、もっと明るい生命観をもって、自らの人生を打開していくべきである。 ⑤について。退廃的な狭い考え方である。当今、この種の人問が増大してきたことは大変に嘆かわしい。生きているうちにやりたい放題のことをしてなどという考え方は、少なくとも、現代の青年はもつべきではない。なるようになれなどという無責任な人は、社会の連帯性について再考する必要がある。これについては、教育、政治の分野で解決すべきことが大である。いずれにしろ、自己の生命観を検証することは大切である。 次に、「生命とは何か」という問いと同時に、多く自問自答することは、 「いかに生きるべきか」「何のために生きるのか」という2つの問いである。これに対する答は、意外に簡単であると思われる。というのも、問いの中で既に答を暗にほのめかしているからだ。 前者の「いかに生きるべきか」を言い変えれば、「どうしたら自己の最高の幸福を得るように生きることができるか」という問いである。 この場合、物質的な幸福だけでなく、精神的な幸福も含まれる。序でも述べたように、幸福を得るためには、平和の確立が前提条件となる。まず、これを満たすことが肝要である。それには、不断の努力と研さんが必要である。だから、そこに、他人に迷惑をかけないとか、正しい法や道徳に従うとか、寸暇を惜しんで修養する、人と仲良く生活する、等の小項目が存在し、その実践により、少しずつ我々は幸福な境涯に近づくのだ。万人がそのような気持ちで実践すれば、国連憲章に述べられている「平和即幸福な世界の実現」も可能であろう。 後者の「何のために生きるか」も言い変えると、「自己の存在を、何を対象として価値を創造して生きるのか」という問いになる。つまり、己のため、世のため、人のために生きるのである。価値とは、単なる認識と異なる。昔、カント等の哲学者が述べた、真善美が価値の根本であるのかどうかわからない。しかし、地動説にしろ天動説にしろ、その真理の追究は、我々には価値をもたらさないように思われる。 我々が生きていく上で価値を創るとは、「好き」とか「楽しい」という存在を創ること、日々の生命活動をいきいきと助長するものの発見、与えられた責務(労働) に専念し家族を養うこと、 また、社会事業に尽くすとか、文学や芸術を編み出すとか、立派な人材を育成する、等にある。 これら2つの問いと幸福は表裏一体のもので、別々に論ずべきことではないが、あえて分類して考えてみた。古来、いろいろな哲学者が、これに対する見解を述べているが、私は、ヒルティの幸福論の、時間についての考えに一番興味をひかれた。私は、人生の目的をこの2つに徹して生きていくつもりだ。 我々は、人間の生命を考えるうえで一番大切なことは、精神と肉体を一緒に考えることだ。そして、その立場から、現在自己に与えられている生命を最大限に活用していくことが好ましい。さらに、幸福な境涯に一歩でも近づくべく努力し、古人や先輩の人々の訓に耳を傾け、宇宙の生命リズムにのっとり、より生命力旺盛な己を築くことが肝要である。そして、自他ともにお互いの生命を尊重し、戦争の惨禍を二度と起こさないようにし、理想社会の建設に邁進していくのが、我々青年の使命である。もし、この世に宇宙万物の法則を包含した哲理が存在するとすれば、人間の生命に対する迷いもなくなるであろう。そんな哲学を捜し求める責任も我々に課せられているといえよう。以上が私の生命雑観である。
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日本では、ゴールデンウィーク、シルバーウィーク、祝祭日、土日と、休日数が大変多くなりました。旅に出かけられる時間ができました。そこで、今回は、「行ってみたい日本の世界ジオパーク」の魅力を紹介します。日本の歴史をさかのぼってみるとき、神話による「国づくり物語」をイメージするのも楽しいですが、実際にジオサイトに立って、十数億年・数千万年という時間軸で築かれた「地球創生」「生命起源」の3D の世界に入り込むのも、得も言われぬ感動ものです。大自然の鼓動に抱かれた自分という生命体の共感性。無限という時間軸にたたずむ自分という存在の有限性。そして、忘我のなかでの蘇生感。 阿曽の火口
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青 年①   今から56年前(1966年)17歳の少年の記録。 ①~⑤で掲載

       少年の日の「記憶」は、遠く霧の向こうにかすんでいるが、少年の日の「記録」は、当時のままの形で、きちんと残っている。自分が「17歳の高校生」の時に書いた青い文章も恥をしのんで掲載してみたい。時代背景が少年の文章にもにじみ...
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