ライト小説  岩と川と少年

ペン(小説 ルポ)を元気に
岩脈に沿う「小屋ン滝」

これは、新城の、とある山あいの集落の少年と岩と川をめぐるお話です。あなたは、岩に命があり意思があるということを、信じられないかもしれません。当然のことです。岩は無機質であり、遺伝子もタンパク質もありません。細胞もなければ寿命もありません。したがって、命があるなどということは考えられません。それが人間の常識です。

人類が地球上に出現して数百万年がたつと言われますが、有史以来の年数は、たった二千年です。地球の四十九億年、中央構造線の一億年の起源からすれば、ごくごくわずかな時間です。したがって、岩の命など考えられないと思われるのも無理はありません。ただ、このお話に登場する少年は、岩のぬくもりや鼓動を感じています。

岩と人間の違いは、基本となる時間軸の長さが異なるだけです。人間が一年ごとの歳月で物事を斟酌するのに対し、岩は少なくとも一万年の単位で考えます。一万年と言えば、人間で言えば、四百世代もさかのぼり、一気に縄文や旧石器の時代になってしまいます。時間スパンが異なるなかで、それぞれに、命の輝きを見せ、時に、人に語りかけてきます。少年と岩との生活体験のいくつかを紹介します。

1 岩のぬくもり

清流は、その水が澄んでいるぶん、冷たく感じられます。川底の石は、エメラルド色に染まり、群れて泳ぐ若鮎たちは、陽の光を浴びて、キラリキラリとまぶしく輝いています。小さな滝壺の砂地では、スナハミ(カマツカのこと)が、水泡をふくんだ流れに向かって進んでいます。ブトウ(カワムツのこと)やオイカワ、シラハエも元気に泳いでいます。ジンタ(ヨシノボリのこと)は、岩肌にくっついて上流をめざしたり、石の下から出たり入ったりしています。

三輪川は、町の水族館では見られない天然のパノラマ水族館です。清流と魚たちの展開するすばらしい光景を目のあたりにしていると、ついつい時間のたつのを忘れてしまいます。夢中になって魚とたわむれているうちに、いつの間にか、体の芯まで冷えて、唇が紫色に変色します。奥歯がガチガチ鳴り始め、全身がガクガク震え、両腕に鳥肌が立ちます。「寒い!」と思わず声が出て、あまりに長い時間、水のなかに入っていたことに気づきます。

急いで浅瀬に上がります。浅瀬も岩盤でできており、その上を水が流れています。地元では板を敷き詰めたような形状から、浅瀬をヒラバン(平板)と呼んでいます。慣れていないと、岩盤の表面に生えた藻によって、つるつる滑って転びます。少年は、いつものように、まるで土の上と同じように、パシャパシャパシャッと水を蹴って走って岸辺まで行きます。その水音を聞いて、足元をすばやく魚が泳ぎぬけます。

岸に着きます。岸といっても砂や石ころではありません。岩盤です。夏の太陽で熱せられた岩肌は熱いくらいですが、濡れた体で寝そべると、ほどよい温度になります。仰向けになると、透明な空気と木々の深緑の向こうに、夏の青い空が広がっています。山際には、入道雲がむくむくと立ち上っています。岩のぬくもりがじんわりと体に伝わってきます。鳥肌が消え、体の震えが止まります。全身が柔らかくほぐれ、力がぬけてきます。次第にまぶたが合わさり、目の前の青い風景が黄だいだいの風景に変わります。そのなかに数本の血管が走り血の流れているのが見えます。

この目の前の情景が、岩の命なのか、はたまた太陽の命なのか、見ている自分が自分なのか、はたまた岩の一部なのか、判然としない世界のなかで、少年は一億年のかなたへといざなわれていきます。「まどろみ」という至極の世界において、時間は悠久に続くものと思われました。

2 岩のかたち

少年の村は、岩山に囲まれています。一番目立つのは、西の山の頂にそびえたつ「獅子岩」です。まさに中国の四獣の言い伝えのように、西を守護する白虎(びゃっこ)のように村を見下ろしています。少年は、いじめられてひとりぼっちの夕方など、庭先の松の木によじ登って、獅子岩に沈む夕日を眺めたものでした。

少年の村を概観しますと、北の方角には、「行者岩」が鎮座しています。北を守護する竜のように、黒く切り立ったその姿は、峻厳な空気を漂わせています。

南の朱雀の方角は、「あての山」と呼ばれる山があります。たぶん「天の山」からきたものと思われますが、山の神が祀られた杉の巨木の繁る山です。岩盤は地表には表れていず、大小の岩があちらこちらに点在します。

残る東の青竜の方角は、これといった岩はなく、村の鎮守の神様やお薬師様があり、三輪川と大島川の二つの川が合流する開かれた場所となっています。風の道、雲の道となっています。

獅子岩から行者岩の間は、断崖絶壁、奇岩が立ち並ぶ岩山で、それぞれの岩に、人間生活にちなんださまざまな名前が付いています。珍しいのは、「百六岩」です。さかのぼること千年、源平合戦のころ、源氏に追われた兵士百六人が巨岩の影に隠れて追手の攻撃まぬがれたというものです。直方体の大きな岩の下には、大きな隙間があって、なるほどこれなら大勢の人間が隠れられたなと想像できます。ちなみに、少年の村には、ほかにも、平家平、平家沢といった地名が残っています。

さて、この岩山、少年にとって大好きな時機があります。それは、大雨の降った後です。岩のくぼみに多くの滝が出現し、ふもとに近づくにつれ白い太い帯となって、流れ落ちる瀑布となる風景が見られる時です。当時、中国の泰山や廬山の山水画は知るよしもありませんでしたが、黒い岩肌に薄霧がかかり、あちらこちらに大小の白い滝の糸の流れ落ちるさまは、大宇宙の一幅の名画を見るような、いつまでも飽きない風景でした。

このように、岩盤や岩は、悠久不変のようでありながら、日により時間により、季節により天候により、さまざまな表情を見せています。

3 岩の凹凸

少年にとって、岩は身近な友達でした。家のそばにも、数千年の間に裏山から転がり落ちてきたと思われる、高さ三メートル、周り十メートルほどの巨岩が鎮座していました。穴があればもぐる、木や岩があればよじ登る。自然のなかで育つ子供にとっては、当然の本能でした。

「この岩のてっぺんに上る!」という言葉は、少年にとって、大きな目標でした。

 親や大人に見つかれば、必ず止められるので、いつも周りに人気のないことを確認してからの挑戦です。まず、どこに手をかけ、どこに足を置いて登るか、幼い少年にとって格好の登り口はなかなか見つかりません。手前から登攀を試みます。数センチのくぼみに右手の指を立て、左手でさらなる上の手がかりを探り、足の端を岩肌に必死にすり寄せるも、ずり落ちてしまいます。再び挑戦しても、失敗。次は、向こう側からの登攀。同じことを何度も繰り返す。

そのうちに、少年が岩になじむのか、岩が少年に心を許すのか、登りやすいルートらしきものが見えてきました。途中まで登り、反動をつけて思い切って横に移動し、そこからまた登る。かすり傷を負いながらも、ある日、やっと、てっぺんまで登ることができました。はいつくばっていた両手を岩から離し、おそるおそる立ち上がってみます。視界が大きく広がりました。

「登った、ついに登ったぞ。」

少年は、この時、初めてこの岩を親しい友達のように感じたのでした。この後、少年は、叱られたり、いじめられたりしたときに、岩の上に登り、岩と心のうちを語り合いました。岩の表面のわずかな凹凸は、岩と人間をつなぐ糸口です。少年には、その糸口が見えました。

4 岩と食糧

 少年の村の川は、まるごと岩盤です。岩盤をえぐって川が流れています。その岩盤が、さまざまな形を演出し、生き物の命を育むステージを創っています。

 岩盤の小さなくぼみや小石の下には、茶色の網のような幕を張ったなかにエボ(トビケラの幼虫)がいました。ホタルの幼虫にも似ています。長野県ではザザムシといって佃煮などにしてタンパク源として食しているようです。これを餌にして渓流釣りをすると、魚の食いつき方が違います。ミミズやアオムシなど比ではありません。エボ採りは、多くの川魚を釣るために不可欠の作業です。餌のエボさえたくさん採れれば、もう成果は見えたようなものです。あとは、魚によって異なるポイントです。

 アユの釣りは友釣りですので、子供には難しく、中学生以上にならないとできません。したがって、子供は、それ以外の魚。雑魚やウナギがねらいとなります。

 まず、雑魚。食べて美味い順から言うと、シラハエ、オイカワ、スナハミ、ブトウ、アカブトウ、ノメッチョ(アブラハヤのこと)、ジンタです。

シラハエやオイカワは、浅瀬で流れの速いところがポイントです。夕方になれば、カバリ(疑似餌)でも、よく釣れます。柔らかい竿で釣ると、けっこう手ごたえがあります。オイカワの明るい七色に輝く鱗には、いつも心を動かされました。

ブトウ、アカブトウは、流れのある深みでよく釣れます。アカブトウは、ブトウの大年増でしょうか、形も大きく、口の周りにブツブツがあり、あごから下腹にかけての赤が鮮やかです。

ノメッチョは、名前のとおり、体の表面にぬめりがある魚です。どちらかというと、よどんだ淵などに多く棲息しています。あまり釣りたくない魚です。

スナハミは釣るのでなく、丸い小さなカスミ網で捕獲します。上流の方から素早く網をかぶせて捕えます。ジンタは滝の注ぎ口に三角網を置き、川柳の枝などを持って少しずつ網に追い込んで捕獲します。水の流れる岩肌にびっしりと群れをなしてくっついており、多いときには小バケツ半分ぐらいは捕れました。

アユは、川魚のなかでは、一番の美味です。釣りは難しくても、竿の先に鈎針をつけてアユを追っかけて引っかけて捕る「ひっかけ」は、少年たちにとって、もっとも楽しみな漁です。アユを追いかけてヒラバンを走り、猛進するアユの前に引っかけ竿を差し出すと、アユが針にひっかかります。淵などで大勢の子供でアユを囲い込み、岩の下のくぼみにすくんだところをひっかけます。どこの石の下にすくむか、どこの岩のくぼみにアユがたわむれるか、少年はくわしく知っていました。

また、年に数回、川の瀬を購入した家の人に招かれ、網をめぐらして漁をするときなど、一メートル四方もある大きな桑の葉を入れる竹籠に二、三杯も捕れていたことも覚えています。岸辺で火を焚いて、捕れたてのアユを塩焼きや田楽にして食べた味は忘れられません。

 ウナギもいっぱいいました。少年は、ウナギは自分で捕って食べるものであり、買って食べるなどということは、大人になるまで知りませんでした。

少年は、二つの方法でウナギを捕りました。一つは三角網と鉄棒を使って、二人で行う捕り方です。ヒラバンをはじめ、川には大小の数多くの岩がありました。その岩の下にウナギが潜んでいるのです。ウナギのいそうな岩を探し、ウナギの出そうな方向に三角網を置き、反対側から、てこの原理で岩をゆすります。驚いたウナギが飛び出してきた瞬間、三角網を引き揚げて捕ります。

もう一つは、「ふてばり」です。前日の夕方、糸の先につけた大きな針にアユやジンタを付けて、石のおもりを結わえてウナギのいそうな淵に沈めます。翌朝早く日の出前に起きて、川にふてばりを引き上げに行くのです。足早に川に向かって行く時のワクワク感はたまりません。それぞれ仕掛けた場所に行き、水鏡で覗き込み、竹の先に付けた鈎で引き揚げます。

大人たちは、大きなミミズを付けて釣りもしていましたが、少年は、やりませんでした。どこの岩によくウナギが住み着いているか、少年は、しっかりと覚えています。岩の形や大きさ、その位置が、それぞれの魚にとって生きやすいようになっているからです。岩がそれぞれの命を育んでいるのです。

今でこそ、ウナギの稚魚が少ないと大騒ぎしていますが、少年は、湿り気のある岩肌を登る稚魚、「はるめ」と呼んでいましたが、滝の断崖を登る「はるめ」など普通に見かけました。また、川より十数メートル高い村里を流れる田んぼの沢の石垣の穴にも、よく肥えた脂ののったゴマウナギも多く住んでいました。

川だけでなく、山も食糧のありかは熟知していました。どこに行けば野イチゴが摘め、どこに行けば森いちごが枝にいっぱいなっているとか、美味しいイタドリのあるところ、大きな自然薯の掘れるところ、ワラビやゼンマイの生えているところ、アケビのあるところなど、野山は、少年の庭のようでした。岩を知り、土を知り、地形とともに、自然の恵みのあることを、知識ではなく、体感で覚えました。

5 岩と経済

 味付けパン(コッペパン)が一個十円の時代でした。少年は親から小遣いでもらった十円玉を握りしめ、駄菓子屋に小走りで行って、菓子を買いました。味付けパンのほんのりとした甘味は、今でも思い出されます。

棒状のビニル袋に入った五円のジュース、自転車に旗を立て鐘を鳴らして売りに来たアイスキャンデーも五円、自転車に乗ってやってきた紙芝居屋さんの水飴は、五円だったか十円だったか定かではありません。二本の棒でこねくり回して一番白くなった子供にもう一本おまけに水飴をくれました。貸本は五円、チョコレートのくじも五円、せんじのかき氷は十五円でした。

とにかく冷蔵庫も洗濯機もガスコンロもない時代の相場です。子供の役割で、風呂の水は井戸からバケツで運び、薪割りや風呂焚きもやりました。台所はかまどで煮炊きは薪で行っていました。焚きつけの杉の枝拾いも子供の役割。裏山に行って、二束三束を背負板(しょいた)に結わえて運んだものでした。春と秋には、農繁休みがあり、子供は学校には行かずに家の百姓の手伝いをしました。当時、評判の良い子の条件は二つ。「誰にでも大きな声で挨拶のできる子」「しっかりと家の手伝いのできる子」です。勉強の出来不出来は関係ありませんでした。

そんな時代ですから、子供においても、子供人生を楽しむためには、現金収入の術が重要です。パンケン(めんこ)やかちん玉(ビー玉)の勝負事の元手を稼がなくてはなりません。小遣い銭稼ぎの方法は、いくつかあります。

手伝いをして駄賃をもらう。これは少年の自負心が許しません。手伝いをすることは家族の一員として当り前のことです。手伝い以外で、自分の力で稼ぐことが大切です。

少年にもできることが二つあります。一つは、鉄や銅の金属を拾い集めて収集業者に売ること。もう一つが、ガンピを採集して樹皮を乾燥して業者に売ることです。ガンピの重量によって代金が支払われ、時に、数百円もの現金を手にすることができ、小金持ちの気分を味わうことができました。

そのガンピが、岩と密接にかかわっているのです。          (つづく)

コメント

  1. 横山先生の教え子 より:

     川で遊んだ思い出、いいですね。なかなか今の子たちに認めるのは難しいけれど、でも、それが大切に思います。新城の川は対岸が見えます。私も子どものころ、子どもだけで川で泳ぎました。現在は「子どもだけで川に行くな」と伝える立場ですが、安全に遊べるように伝えることも親の責任だと思います。私は、自分の子どもがプールで50m以上泳げるようになった小学生の時、富沢の瀬に連れて行って親子で泳ぎました。そのとき、水量の多いときに川に入らないことととともに万一の時、力を抜いて水に浮いていれば(背浮き、または立ち泳ぎで)岸につくということを実践しました。禁止だけでなく、親が子に万一の時の対処を教えることも大切なのではないでしょうか。
     ただし、これは川でのことだけで、海では通用しません。父は田原の海で泳いでいたので、海での対処方法を教えてくれましたが、川は浮かないので怖いと言っていました。

    • morimorigenki より:

      コメントありがとうございます。「ふるさと」の歌の歌詞にあるように、そして、高度成長前の昭和の少年のように、子供たちに身近な自然の川や山で遊ばせたいと願っております。ただ、そのためには、自然に慣れ親しみ、楽しさと同時に自然の怖さも学ぶ必要があります。ただ、昔と異なるのは、山は人が入らなくなって荒れ、川は上流にダムができ自然の流れでなくなったことです。自然が昔のような自然に戻った時、子供たちの生活に自然が自然に存在するようになり、逞しく生きる力が培われることと思います。

      • 忠さん より:

        父は昔、勤め先の近く、吉田城下の河原に私を連れて行き、私を溺れそうにさせました。私、保育園年長さんの頃5歳位だったかと思います。
        浅瀬から川を進み、背よりも深い所で、いきなり私の体を放り投げたのです!「ザブーン!!!」私は必死に手足をバタつかせ、鼻と口に入って来る水に喘ぎながら、ヤバイ!!死んじゃう!って。。。
        今思えば、それが父の体育の授業だったのですね。
        それから10年後、母校東郷中学校の新設されたプールで、元オリンピック選手「前畑秀子さん」の泳ぎ初めを観て、平泳ぎで4kmを遠泳できる中学3年の私がいました。
        今だから笑える、父との貴重な体験でした。

        • morimorigenki より:

          忠さん、メールありがとうございます。実は、私も同じような体験をしています。幼いころ、父といっしょに川に遊びに行ったとき、溺れかけたことがありました。その時、少し時間をおいて、父が手を差し伸べて「立ってみよ」と言われ、立ってみると胸ぐらいの深さで溺れなくてもすむ状況でした。自然のこわさと、自然への対処の在り方を教わったような気がします。それから、川や自然がますます好きになりました。

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