安倍晋三元総理が67歳という若さで、暴漢の理不尽な理由で凶弾により非業の最期を遂げられた。在任中の外交や内政でのご活躍とともに、政治家としての志なかばで他界されたことで、内外に大きな衝撃が走った。犯行の背景については、今後、解明されていくであろうが、聴衆の面前でマイクを握り力強く語りかけた氏が、一瞬にして心肺停止状態になってしまう。生身の人間の命の危うさを思う。元総理のご冥福を祈るとともに、命について考えてみたい。
人は、命の限りあることを知っているから、そして、死期が明日なのか数年後なのかいつか分からないから、命ある期間の人生をいかに生きるべきかを考える。「人生いかに生くべきか」、人は、いつからそのような思索をするようになったのだろうか。
進化の過程で、明日の命の保障もなく、食べること・生きることに精一杯のころは、「人生」などということも、「いかに生くべきか」といったことも、考える余裕もなかっただろう。農耕が始まり、社会が生まれ、貧富、権力の差が生じたころから、欲望が多様化し、幸福とか不幸を感じるようになり、苦悩が生まれ、千差万別の生き方のなかから、自らの思い描く幸福を求めて、哲学や宗教が生まれたものと考える。
さらに加えるならば、人が命に限りあることを覚り、生き続けたいという本源的欲求と、必ず死ぬという逃れない事実のはざまで、死への不安・恐怖と現世の利益に目を向けるようになる。また、現世だけでなく来世もあり、来世があるなら前世もあるのではないかといった三世の考え方や、因果応報の考え方が生まれたのであろう。さらに、人が社会的によりよく生きるために、罪や罰、天国や地獄、道徳や倫理、哲学や宗教が生まれたものと考える。
人生への追究は、人の一生において、変容する。少年期、青年期、成人、壮年期、老年期など、それぞれの年代により、微妙に変化する。また、生活環境や社会的立場によって、変わりゆくこともあろう。このカテゴリーでは、そうした視点で、「人生」を考察してみたい。


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