青年② 生命・いかに生きるか

ペン(小説 ルポ)を元気に

生  命  (青 年 ②)

夜、電燈の光を慕って2匹のトンボが部屋に入って来た。飼い猫がそれを見つけ1匹を食べてしまった。残った1匹は、そんなこととは関係なく平然と何事もなかったように、ガサガサと電燈にぶつかりながら、元気良く舞っている。

さて、食べられたトンボの生命は何処に行ったのか。残されたトンボもわからないし、食べたネコも、第三者の私にもわからない。

生命とは何か。古来、哲学者や科学者が真剣に追究してきた問題である。それは今もって解決されていない。この方面の専門である「生化学」の学術会議が、本年、日本で開催された。オパーリンや米国の学者たちが、生命の神秘と美を賛嘆し、将来、4年以内に生命の原形ともいえるアミノ酸合成ができ得ると言っている。

近年、この分野の開発は著しく(従って、高等学校の生物科の内容も深くなる)、彼らの言うことは、おそらく実現するであろう。しかし、それでも、なおかつ、我々人間の生命活動である精神活動等の解決にはならない。要するに、道は険しく、可能なる日は、はるか先のことなのだ。

生命とは突如として現われ、瞬間において消え去るものか。そんなはずはない。そこには何らかの要因が働くからこそ、結果が生じるのである。生死についての原因結果とは何なのか。我々は「生命」という言葉を聞くと、それは、物資交代、エネルギー代謝をする動物、植物、ウィルスと答える。だが、それらがこの世に現れる以前の存在はどうなのか。無から有を生じないので、やはり、そこにも別の生命があったはずだ。

そうなると、我々は元来の固定概念を取り除かなくてはならない。つまり、自然、地球、宇宙にも、生命が存在するということだ。その証拠に、我々は、高校1年生の時に、地学科でラッセル図による恒星の進化を習い、第一種族の恒星から第二種恒星まで進化し、最後に 爆発して白色わい星になることを知った。よって、この太陽系も銀河系も、次第に膨張して同じ運命をたどるはずである。

しかし、生命は、そこでとだえるのではなく、再び、それらが新しい宇宙と生命を形成することは必至である。その限りない繰り返しがあるとするならば、生命は永遠である。我々人間の生命にしても同様のことが言える。それは、生態系内の物質循環のなかの、炭素、窒素の循環を考えればわかりやすい。それが全体を表しているわけではないが、生命を考えるうえで、永遠であることの自覚は、最も大切であるように思う。

ここで、一般的な人々の生命に対する認識を考えてみよう。以下、羅列的に並べてみる。①偉大な功績を残すために生きる。

②子々孫々、自分の血筋を伝える。

③霊魂によって死後も生き続ける。

④生命はこの世だけの無常なものである。

⑤生命は現在に存在するのみだから大いに楽しんで生きる。

以上、5つほどの例をあげたが、果して、これが自己の生命の生きる意義になるだろうか。①について。立派な文学者や芸術家であれば該当するかもしれないが、我々のような凡人には、とうてい無理な話である。②について、子孫が絶えてしまったらどうなるのか。その生命はそこで終止符を打つことになる。これは世の中でしばしばあることで、ヨーロッパのカロリング家やホーエンツォレルン家なども、断絶してしまった王家の例である。

③について。死を体験した記憶がないので、はっきりとは答えられない。しかし、恐山の話や、米国の催眠術者がある人に生前の環境まで話させたという実験結果を聞くにつけ、あながち嘘でもないだろうという気がする。だが、やはり、私は否定する。

その理由は、霊魂を認めたとすると、現在、我々の生命を構成しているものは、肉体と霊魂ということになる。すると、霊魂は、単に我々の体に宿しているだけになる。つまり、別々の存在になってしまうのだ。我々の生命活動においては、精神と肉体が互いに影響を及ぼし合っていて、単独で活動することはあり得ないからだ。

例えば、恐ろしい夢を見たとき、ハッと目を覚ますと、体中が汗びっしょりになっていたといった経験がそれである。眠っているから、明らかに精神のみの働きであるはずなのに、肉体にもかなりの苦痛と疲労を及ぼしているのではないか。精神と肉体は、別々に考えるべきものではない。

④について。平家物語の冒頭に見られるような希望のない暗い生命観である。確かに、現実をありのままに見ようとすると、あまりにも人間の醜さが露骨に現れて、生きがいもなくなるだろう。しかし、もう一度考え直す必要がある。人間を構成するものは、悪が全てでなく、あらゆる人々が、善や慈悲の精神をもっていることを。人々は、もっと明るい生命観をもって、自らの人生を打開していくべきである。

⑤について。退廃的な狭い考え方である。当今、この種の人問が増大してきたことは大変に嘆かわしい。生きているうちにやりたい放題のことをしてなどという考え方は、少なくとも、現代の青年はもつべきではない。なるようになれなどという無責任な人は、社会の連帯性について再考する必要がある。これについては、教育、政治の分野で解決すべきことが大である。いずれにしろ、自己の生命観を検証することは大切である。

次に、「生命とは何か」という問いと同時に、多く自問自答することは、 「いかに生きるべきか」「何のために生きるのか」という2つの問いである。これに対する答は、意外に簡単であると思われる。というのも、問いの中で既に答を暗にほのめかしているからだ。

前者の「いかに生きるべきか」を言い変えれば、「どうしたら自己の最高の幸福を得るように生きることができるか」という問いである。

この場合、物質的な幸福だけでなく、精神的な幸福も含まれる。序でも述べたように、幸福を得るためには、平和の確立が前提条件となる。まず、これを満たすことが肝要である。それには、不断の努力と研さんが必要である。だから、そこに、他人に迷惑をかけないとか、正しい法や道徳に従うとか、寸暇を惜しんで修養する、人と仲良く生活する、等の小項目が存在し、その実践により、少しずつ我々は幸福な境涯に近づくのだ。万人がそのような気持ちで実践すれば、国連憲章に述べられている「平和即幸福な世界の実現」も可能であろう。

後者の「何のために生きるか」も言い変えると、「自己の存在を、何を対象として価値を創造して生きるのか」という問いになる。つまり、己のため、世のため、人のために生きるのである。価値とは、単なる認識と異なる。昔、カント等の哲学者が述べた、真善美が価値の根本であるのかどうかわからない。しかし、地動説にしろ天動説にしろ、その真理の追究は、我々には価値をもたらさないように思われる。

我々が生きていく上で価値を創るとは、「好き」とか「楽しい」という存在を創ること、日々の生命活動をいきいきと助長するものの発見、与えられた責務(労働) に専念し家族を養うこと、 また、社会事業に尽くすとか、文学や芸術を編み出すとか、立派な人材を育成する、等にある。

これら2つの問いと幸福は表裏一体のもので、別々に論ずべきことではないが、あえて分類して考えてみた。古来、いろいろな哲学者が、これに対する見解を述べているが、私は、ヒルティの幸福論の、時間についての考えに一番興味をひかれた。私は、人生の目的をこの2つに徹して生きていくつもりだ。

我々は、人間の生命を考えるうえで一番大切なことは、精神と肉体を一緒に考えることだ。そして、その立場から、現在自己に与えられている生命を最大限に活用していくことが好ましい。さらに、幸福な境涯に一歩でも近づくべく努力し、古人や先輩の人々の訓に耳を傾け、宇宙の生命リズムにのっとり、より生命力旺盛な己を築くことが肝要である。そして、自他ともにお互いの生命を尊重し、戦争の惨禍を二度と起こさないようにし、理想社会の建設に邁進していくのが、我々青年の使命である。もし、この世に宇宙万物の法則を包含した哲理が存在するとすれば、人間の生命に対する迷いもなくなるであろう。そんな哲学を捜し求める責任も我々に課せられているといえよう。以上が私の生命雑観である。

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