青年⑤ 宗教と哲学

ペン(小説 ルポ)を元気に
日本寺の大仏(31m)奈良の大仏が18m、鎌倉が13m

前述の通り本章も簡略化する。

「宗教」という言葉を聞いた時、現代青年の多くは何を想起するだろうか。

「年寄りくさい」「迷信だ」「科学万能の世に何を言うか」「必要ない」「関係なし」等の考えを持っているのが現状だろう。これは、宗教についての無関心と不信とに他ならない。しかし、そう言う青年達も、窮地に陥った時には、「神様、仏様」と手を合わせることは間違いない。

 つまり、口では否定しても、心の奥底では、常に何か絶対的なものにすがりたいという気持ちを持っているのである。

 第二次世界大戦において、神国日本が敗北したことにより、それまでの、神道の絶対的権成は地に落ちたと言っても過言ではない。天皇が人間化し、神は日本を守らなかった。それにより、 日本人の宗教に対する不信感は、いっそう高まった。しかし、現在の西欧文明は、キリスト教のもとに、日本の明治以後の発展は神道のもとに、それそれのイデオロギーに根ざしてきたことは、疑うべくもない。

古来、人間は何か一つの物事に没頭したい欲望(本能)がある。我々の日常生活において、一度だけでいいからあれをやりたいとか、空虚な一日を過ごした後で明日こそはと決心を新たにすることがある。友人と喧嘩をしたり先生に叱られたりした時に、やけになり無性に何かをしたくなるとか、野球やバレーボール、読書や勉強等に夢中になり、時を忘れるといったことがある。つまり、「没頭したい」という気持ちは、不安定な心の状態から、夢中になることで、安定した心の状態に入るという欲求である。

不安定から安定への推移、自然界は、全てこの法則に従って進んでいる。例えば、水は、空の不安定な状態から、より安定な地上へ落ちる。それだけでは満足できず、いっそう安定した場所、すなわち、海を求めて脈々と流れる。地形の輪廻も同様。動物の生活も然り。野性の動物たちは、自己の安定した生存を求めて生活している。人間にこの欲望のあることは当然のことである。

万物の現象が安定、即ち秩序を求めて変化している。人類は最も顕著な存在だろう。何故か。それは、現代社会生活が余りにも目まぐるしく変化し、よりどころのないものなるが故である。起きるより寝るまで一分一秒に追いまくられる。複雑な人間関係に常に気を使い、上司の命令には服従しなくてはならない。この社会環境において、神経が鋭敏にならぬ方が不思議だ。心の潤いとなる豊かな温かい情緒は次第に埋没し、人心は北風に吹きさらされた枯枝の如くなり、その渇望を、乾いたコマーシャルやコミックで穴埋めしている。そのため、ますます傷つき、人間関係は、すれ枯れたものになっている。

この状態において人間は自己を堅持していくことができるだろうか。

サルトルは言う。「人間は人間が自らつくるところのものにすること。つまり、自己に対して責任を持ち、自己の決意によって、自己を未来の可能性に向けて投げかけることであるから、そこには自己の未来を選びとる自由がある」と。要するに人間は自己の責任によって、己の運命を切り開いていかなければならない、と説いている。サルトルは真正面から神を否定している。人間の力を心から信じている。少なくとも私の目にはそう映った。ならば、サルトルは真に強い人間なのか、もしくは、偽装して天下に大みえを切っているかのどちらかである。

私はサルトルについて深い認識はない。ほんの少しかじったに過ぎない。そんな見識で、しかも、高校生の分在である私が、世界の大哲学者サルトルを批判するのはもっての外かもしれない。だが批判ではなく、サルトルが前者であれば、私は心から彼を尊敬し、師として仰ぐだろう。

しかし、現在の私の心境からみて、人間がそれほど強い者とは考えられない。ふだんいくら自分は強いと気をはってみても、いざ困窮の立場に立たされたり、死に直面したりした場合、まざまざと自己の弱さを知ると思う。だから、彼のように自己の力を真に信じるような思想は受け入れがたいのだ。その点では、同じ実存主義者でも、キルケゴールには共鳴点が多くある。なかでも、「人問は弱き者なり」という言葉は、印象深い。

人は、常に秩序を求めてやまない。だが、その秩序ある境地への到達には、限りない努力と信念が必要だ。残念ながら、弱き人間の多くは、それを持ち合わせていない。周囲の環境や時流に押し流されやすく、そのとりことなって空虚な生活を送る者も多い。そこで、人々は、その空虚を埋める手段として、幸福を探究して、宗教を求める。

現代人の多くは宗教を不要物とみなし、全て科学によって解決し得るという錯覚を持っている。だが、それは誤りである。なぜなら、当今、ますます精神的な病幣が増大し、社会問題にまで及んでいることからわかる。健全な精神を育むためにも、宗教の必要性を感じるのである。

その理由として、私は、仏教、新興宗教、キリスト教など、多くの宗教・宗派の信者を知っているが、彼らの大部分が、日々、喜々として、慈悲の精神にあふれ、希望に満ちた生活を送っているからである。

ある書物に次の様なことが書かれていた。人々は宗教を批判する。だが、その多くは宗教の本質、実体を知らず、人づてに聞いたことを信用し、空論を吐いているに過ぎない。哲学に正邪高低がある様に、宗教にも、それは存在する。即ち、理想の宗教とは、科学的に論理の正しいものであり、歴史上文献的にその正しさが証明され、信者の生活にその教えが反映されるものである。宗教を批判するのは、このことを認識したうえのことでありたい。と。

つまり、世間一般では、マスコミ等による先入観が強く働き、ありのままの姿を見ようとする人が少ないことを指摘している。これは、何も宗教に限らず言えることである。我々は、宗教を先入観ぬきで素直に見る必要がある。

私は、ここで宗教の必要性を述べた。あえてそれを言った訳は、哲学、道徳、宗教、政治、文学等のなかで、人間に与える影響が一番大きいのが、宗教だからである。哲学や道徳は、観念的に理解できても、実践が伴いにくい。政治、文学は、当該の人間に、確固たる思想・信念がなければ、価値あることはできない。

現在、世界情勢を鑑みるに、宗教に関する問題が如何に多いことか。宗教は、ひとり人間の一生を決めるのみならず、民族の在り方をも決定するのだ。それ故、信仰する場合には、衝動的・感情的でなく、慎重を期する必要がある。偉大な宗教、生命哲学を探索し、それを身につけ、明るく、生き生きとした社会の建設を目指すことが、青年にとって大切な要件である。

青年⑥ 結び

世界は人種、イデオロギーの相違等で常に紛争が絶えない。しかし、地球という世界は一つであり、人類は共通の仲間である。現在、西欧の知識人達は、西欧文明のいきづまりのなかで根底となる思想がなく、その突破口を東洋に期待しているという。

ルネサンス期にも、その底流となる思想は、東洋の中国やインドなどから大きな影響を受けたと言われる。しかし、現在の中国やインドの情勢を見ると、そんなことはとても考えられない。そうなると、それは、東洋哲学、仏教の集積地である日本にあるのではないかと考える。

我々は、その宝を発見し、それを世界に広げ、人間尊重、戦争否定の精神のもと、互いの国家、民族の交流を進め、相互理解を深めたい。個人的には、常に自己の反省を怠らず、自身の成長を期し、将来への綿密な計画を立てていきたい。そして、これからの世界は我々が築くのだという意気に燃え、平和と繁栄のために努力していきたい。

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