うつせみの風景(猛暑の年に)
「41℃」。
M は、目を疑った。平成25年8月13日の朝刊のトップ記事。
黒地に白抜き文字の大見出し、四国の四万十市で国内最高気温を記録したという。
確かに、連日、日本全国、人間の体温を超す猛暑が続いている。かつて経験したこと
のない、異常事態だ。
ということは、玄関先の水槽の金魚は、大丈夫か。
大気からの熱伝導で水槽の水温も40℃?
ちょうどいい湯加減で、金魚はのぼせあがっていまいか。心配になり、急いでかけつ
けて見る。ゆらゆらと尾ひれを動かしながら、何事もないかのように泳いでいる。な
んとか適応しているようだ。いつもより体が赤く見えるのは気のせいか。
愛猫のネネも、クーラーは嫌いらしい。エアコンの効いた部屋には近寄らない。家
じゅうのあちらこちらを移動して、わずかでも気温の低いところを探しては、そこで
げんなりと体を伸ばして寝ころんでいる。食欲はなく、水も飲まない。猫ながら、熱
中症が心配される。
奇妙なのが電力事情だ。東日本大震災の福島原発事故以来、日本の原子力発電所は
停止したままだ。昨年は、電力需要をまかないきれないと、官民ともに必死になって、
節電につぐ節電に努めていた。しかし、今年は様変わりだ。むしろ、クーラーの使用
を呼びかけている。熱中症で命をおとすようなことがあっては大変、背に腹は代えら
れぬということだろう。電力不足の声も、最大電力使用量も、ニュースにはならない。
シャンシャン、ジージー、ZZZi ZZZi Zii!
ほとんどの生き物が暑さでめいっているなかで、ひときわ元気なのがセミだ。無数の
セミの鳴き声が、互いに共鳴と反発を繰り返しながら重なり合い、大きな波となって
M に迫ってくる。
日の出を過ぎたばかりの朝だというのに、30度を超す暑さのせいで、周りの木立
がシルエットのようにかすんでいる。向こうの山々も、その姿がおぼろで、蜃気楼の
ように白くゆらいでいる。今日も人間の体温を超す40℃近い暑い日となるのだろう。
想像するだけでも、脳みそが沸騰しそうだ。その上、まるで地面全体にしかけられた
巨大スピーカーから一斉にわきあがるような、すさまじいセミの声だ。
M は、額から流れ落ちる汗をぬぐった。日差しが肌をつき刺し、目も痛い。地球の
温暖化や砂漠化が進み、二酸化炭素の排出制限が叫ばれて久しい。世界各地に広がる
大干ばつや大水害、大地震や火山活動、生態系異変など、想定外の天変地異のニュー
スは当たり前の時代になってしまった。子や孫の将来を考えると、「はたして、このま
までいいのか」と自問せざるを得なかった
。
それにしても、地表をおおい包む、このセミの鳴き声は何なのだ。暑さでなえそう
になる M の心と異なり、セミは歓喜の雄たけびをあげている。あの小さな体からは想
像できないボリウムで、渾身の力をふり絞って鳴いている。
セミの巨大音量のシャワーを浴びながら、この声の波の向こうに、どれほどの数の
セミがいるのか、M は、木々にとまって鳴いているセミの姿を想像してみた。何百匹、
何千匹、いや数万匹に及ぶかもしれない。酷暑の夏のつかの間を、あらん限りの声を
出して自分の存在を示している。
そんなことを考えているうちに、M の脳裏からは、いつしか、目の前の木立の緑が
消えていた。やがて、幹や枝も透き通って透明になった。すると、おびただしい数の
セミの姿だけが空中に取り残されていた。そこに浮かぶセミたちは、思い思いの格好
で、ひと夏の恋に命を燃やし、透視図の世界のなかで鳴き続けている。
そんなひたむきなセミの姿を見ながら、M はセミの生涯に思いをはせた。五年、十
年と暗い地中で幼虫として過ごし、やっとの思いで地上にはい上がり羽化するものの、
一か月足らずの命。もし、セミに「いつ命を輝かせるのか。」と問うたならば、必ず「今
でしょ。」と答えるにちがいない。今を生きているあかし、輝いているあかしを、セミ
は、自らの鳴き声に託しているのだ。
同時に、このセミ、今鳴いている数万匹に及ぶセミの羽化したかたわらには、同じ
数だけのヌケガラがある。あの木の根元、この木の幹の影に、目立たないけれども、
無数のヌケガラがある。外観はセミの形に似ているが、中身は空だ。これらの薄茶色
のひからびたヌケガラもまた、セミが生きたあかしである。
「ヌケガラが生きたあかし?」
M は、思わず、その言葉を心のなかで、もう一度つぶやき、ハッとした。
今年も、八月六日・九日の広島・長崎の原爆忌、そして敗戦の十五日を迎える。悲
惨な戦争を再び起こしてはならないと、平和への願いを込めて、さまざまなイベント
や報道が企画される。戦前、戦中、戦後をとおして、日本人の価値観が大きく変わっ
た。二千年余にわたって培ってきた日本人の DNA ともいえる精神文化が、空洞化し
てきたと言われる。外観は日本人だが、内面は日本人ではないとのことだが、ほんと
うに今を生きる日本人は、ヌケガラなのか?
ヌケガラは、「うつせみ」とも言う。この言葉は、美しくもあるが、そこはかとない
哀愁も漂う。M は、「うつせみ、うつせみ」と呪文のように唱えながら、目の前でそう
ぞうしく鳴くセミと、ひからびて動かなくなったヌケガラを、ダブらせてイメージし
てみた。
そして、セミを日本人に置きかえ、昔と現代の日本人を重ね合わせて眺めてみた。
情報過多とも言われる今の日本人が、ほんとうにうつせみなのか。それとも外殻のな
かに片鱗が残り、復活の素地が残されているのか。
降り注ぐセミの声が「グローバル、
グローバル」とも聞こえるなかで、思いをめぐらしているうちに、気づけば、音の波
の流され、大海の間に間に浮かんでいた


コメント